3. 5 立体化学命名法

3. 5. 2 有機立体化学命名法

本項では有機化合物における立体異性体の表記法の概略を示す1).

 

a.CIP則の適用法

CIP則を適用して2種の置換基の優先順位を決めるためには,

(1)まずそれぞれの置換基で遊離原子価の存在する原子を比較して,(2)項に述べる規準に従って優先順位を判断する.そこで優先順位が決まらない場合は,それらの原子に結合している原子(それぞれ複数の原子が結合している場合は,優先順位の高い原子同士から順次)を比較する.優先順位が決まるまで順次外側へ比較を繰り返していく.

(2)原子番号の大きな原子は小さな原子に優先する.原子番号が同じである場合は,質量数の大きな原子が小さな原子に優先する.

(3)置換基が二重結合や三重結合を含む場合は,その結合の両端の原子がそれぞれ2本および3本の単結合で相手原子と結合しているとみなす.芳香環はKekulé構造式で考えればよい.

例:

  

 

  

上例で ( ) つきで示した原子は,等価性を示すためのかきかえのさいに付加した原子で,複製原子とよばれる.複製原子の先には原子が結合していないと考える.

以下にCIP則を適用して順位を決める例をいくつか示す.

例1:メチル基 -CH3 とエチル基 -CH2CH3

遊離原子価をもつ原子はともにCであり,順位をつけられない.このCに結合する原子は,メチル基ではH,H,Hであり,エチル基ではC,H,Hである.それぞれで最優先の原子であるHとCを比較すると後者の原子番号が前者より大きいので,エチル基がメチル基に優先すると結論される.

例2:イソプロピル基 -CH(CH3)2とビニル基 -CH=CH2

比較しやすいようにかきかえると次のようになる.

  

 

  

遊離原子価をもつ原子はともにCであり,順位をつけられない.このCに結合する原子は,両基ともC,C,Hであり,ここでも順位をつけられない(複製原子であるかどうかは順位には関係しない).さらに外側に進んで,イソプロピル基の -C-C-H とビニル基の -C-C-(C)を比較することになり,後者が優先することになる.したがってビニル基がイソプロピル基に優先すると結論される.

表3.5-2に代表的な置換基の順位を示す.

CIP則にはさらにいくつかの細かい規則があるが,ここでは省略する.必要に応じ,2013勧告(3章冒頭の文献(3))を参照してほしい.

 

 

b.二重結合に関するシス-トランス異性体

C=C,C=N,N=Nなどの二重結合に結合する置換基の配置の違いによって生ずる立体異性体をシス-トランス異性体という.これまで幾何異性体(geometric isomer)とよばれていたが,IUPACではこの用語を使わないように勧告している.

シス-トランス異性体を命名するときは,二重結合の両端に結合する二つの置換基が水素原子で,残る二つの置換基(同じでなくてもよいが水素原子は除く)が二重結合の同じ側にある場合にはcis,反対側にある場合にはtransと表記し,これらを接頭語として化合物名の前におく.日本語表記の場合もイタリック体のアルファベットで表示する.

例:

      

しかし二重結合の両端の同一置換基が水素原子でない場合には cis,transの帰属が明確にできないので,より普遍的な表記法としてEZ表示法が用いられる.この規則では,二重結合のそれぞれの末端に結合する二つの置換基にCIP則によって順位をつけ,高順位の置換基同士が二重結合の同じ側にあるものをZ(ドイツ語のzusammenに由来),反対側にあるものをE(ドイツ語のentgegenに由来)と表記する.化合物名の前におくときはイタリック体にして( )に入れる.

両者の記号が共存するとき,必要な場合はZがEに優先する.

例:

    

C=N 結合をもつものでは,たとえばアルデヒドのオキシムではOHとHとが同じ側かどうかでsyn-,anti- の表記法が使われてきた.しかしこれも一般性に欠けており,EZ表示法を用いることでより明確に表記できる.この場合,窒素原子上の非共有電子対を低位の置換基とみなす. 

例:

    

c.環状化合物におけるシス-トランス異性体

環状化合物において,二つ(あるいはそれ以上)の置換基の相対的配置によって立体異性体が生じる場合,これらの異性体をシス-トランス異性体という.二つの置換基が環の平均平面に対して同じ側にあるものをcis,反対側にあるものをtransと表記する.なお環状化合物におけるシス-トランス異性ではEZ表示法は用いない.

例:

  

一つの環にシス-トランス異性関係にある置換基が2組以上ある場合には,cis-,trans- のかわりにc-,t- と略記し,それぞれの記号を置換基の位置番号の前につける.記号のつけ方に2通りの可能性が生じる場合はc- を優先する.

基準となる置換基を指定する場合は,記号r-(referenceの頭文字)を位置番号の前につける.

例:

  

基準置換基としては主基あるいはCIP則で最高位となる基を選ぶ.

例:

  

  

なお,2013勧告ではr-1,c-2,t-3などの表記が1r,2c,3tのように改められた.最後の化合物の例の2013勧告による名称は1r-bromo-1-chloro-3t-ethyl-3-methylcyclohexaneである.

 

d.キラリティーに基づく立体異性体

ある分子構造が,それを鏡に映した形に相当する分子構造と重ね合わせることができないとき,その分子はキラル(chiral)であるといい,このような性質をキラリティー(chirality)という.キラルな分子では,実像と鏡像とは互いに立体異性体であり,これらを鏡像異性体(enantiomer)とよぶ.

キラリティーは,点,直線,あるいは平面のまわりの空間に置換基がキラルに配置されたために生じると考えることができる.そのような点,直線,平面をそれぞれ,キラリティー中心,キラリティー軸,キラリティー面とよび,それらに基づくキラリティーを,中心性,軸性,および面性キラリティーとよぶ.

(ⅰ) 中心性キラリティー  4個の異なる置換基が結合した炭素原子はキラリティー中心となり,キラリティー中心をもつ分子は一般にキラルである.キラリティー中心の立体配置はRあるいはSの記号を用いて表示することができる(RS表示法).すなわち4個の置換基にCIP則に基づいて順位をつける(a>b>c>dとする).最低位の置換基dが目から遠くなるようにおいてd-C結合軸に沿って分子を見たときに,残りの置換基a,b,cが右回り(時計回り)に配列している場合,その配置をR[ラテン語のrectus(右)に由来]とする.逆にa,b,cが左回り(反時計回り)に配列している場合,その配置をS[ラテン語のsinister(左)に由来]とする.化合物名の前におくときはイタリック体にして( )に入れる.

  

 

例:

    

炭素原子に限らず,四配位ケイ素化合物におけるSi,第四級アンモニウムイオンのN,さらにホスフィンのP,スルホニウムイオンのSなどがキラリティー中心になり得る.後二者のような三配位化合物においては非共有電子対を最低位の置換基とみなす.

例:

  

分子内に複数のキラリティー中心が存在する場合は,それぞれのキラリティー中心のRS表示の前にその位置番号をつけて立体配置を表示する.

例:

  

なお,この化合物で二つのOH基の相対的な配置を表示すればよい場合は (2R*,3S*)-2,3-pentanediolと表記する.すなわち (2R*,3S*) は (2R,3S) と (2S,3R) を区別しないことを示す.この場合,位置番号の小さいキラリティー中心を便宜的にR*で示す.2013勧告ではrel-(2S,3S)という表記を推奨している.

鏡像異性体を区別して記号で表記する方法として,古くから糖質化学の分野ではDL表示法が用いられてきた.これは (+)-グリセルアルデヒドが下図左の配置をもつとまったく任意に仮定して,この配置をDと名づけ,その鏡像異性体である (-)-グリセルアルデヒドの配置をLと名づけることから出発した.

  

化学的変換によって,その立体配置をグリセルアルデヒドと関連づけることによって,広範な炭水化物やアミノ酸の立体配置が,DあるいはLに帰属された.

1951年にこの帰属が正しいものであったことが結晶構造解析から確認された.すなわちD-グリセルアルデヒドはR配置である.

なおRS表示が個々のキラリティー中心について適用されるのに対して,DL表示は分子について適用される.たとえば下図の分子はD-トレオースであり,個々のキラリティー中心の立体配置は2S,3Rである.

(ⅱ) 軸性キラリティー  軸性キラリティー(axial chirality)をもつ分子の典型例はアレン誘導体であり,集積二重結合の軸がキラル軸になっている.このような分子の立体配置もRS表示法で示すことができる.すなわち,まずキラル軸に沿って分子を見る方向を決める.次に各末端の二つの置換基にCIP則で順位をつけ,さらに“目に近い置換基は遠い置換基に優先する”との細則を適用すると,4個の置換基の順位が決まる.分子を正四面体を横に引き延ばしたものとみなせば,中心性キラリティーのときと同様にしてRかSかを決めることができ, Ra, Sa(aはaxialに由来)で表示する.

  

上図の分子では,キラル軸に沿って右から見れば,置換基の優先順位はCH3>H1>Br>H2 であり,Ra配置となる.分子を左方向から見ればBr>H2>CH3>H1 となるが,やはりRa配置である.すなわち,見る方向に関係なく同じ結果になる.

(ⅲ) 面性キラリティー  面性キラリティー(planar chirality)をもつ化合物として,trans-シクロアルケンやシクロファン誘導体がある.前者の二重結合平面,後者の芳香環平面がキラル面となる.これらの化合物の立体配置もやはりR,Sの記号で表すことができ, Rp,Sp(pはplanarに由来)で表示する.すなわち,キラル面内の原子に直接結合している原子のうち,もっとも優先順位の高いものをパイロット原子として選ぶ.パイロット原子に結合する面内原子から出発して優先順位が高い方向に原子をたどって1,2,3と番号をつける.パイロット原子から見て1,2,3が右回りに並んでいればRp,左回りならSpとする.次の例では矢印がパイロット原子であり,キラル面内の原子1,2,3は左回りに配列されているので,立体配置はSpである.

  例:

   

上記の(ⅱ),(ⅲ)は,立体表示記号MとPで表示することもある.これらの表示法については,2013勧告(文献(3))を参照してほしい.

 

e.配座異性体

単結合のまわりでの回転によって相互変換する立体異性体を配座異性体(conformational isomer)という.配座異性体を記号で区別する方法としてKlein-Prelog則がある.

以下,飽和炭素原子間結合に関する配座異性体について述べるが,それ以外の場合にも拡張することができる.

(1) 単結合の一端に結合する3個の置換基から基準となる一つを次の規則によって選ぶ.

 ① 置換基がすべて異なる場合は,CIP則で最優先の置換基.

 ② 二つが同じである場合は,一つだけ異なっている置換基.

 ③ 3個とも同一である場合は,回転角が最小になるような置換基.

(2) Newman投影式で手前の炭素上の基準置換基を時計の12時の位置においた場合に,後方炭素上の基準置換基が,6等分された二次元の投影空間のどこに存在するかを記号で表示する(下図).これらの記号は,anti/syn,clinal/periplanarを組み合わせてその頭文字をとったものである.必要な場合,記号の前にねじれ角の向きを示す符号+/-をつける.

たとえばブタンの3種の配座異性体は次のように表示される.基準置換基は(1)②項によってCH3 が選ばれる.

 

参考文献

1) “Nomenclature of Organic Chemistry, Section E. Stereochemistry (IUPAC Recommendations 1974)”, Pure Appl. Chem., 45, 11(1976), DOI: 10.1351/pac197645010011;“Basic Terminology of Stereochemistry (IUPAC Recommendations 1996)”, ibid., 68, 2193 (1996), DOI: 10.1351/pac199668122193.